この記事の案内人・編集長
稲垣 瑞稀
- 旧香川県立体育館の解体差し止め訴訟で、何が争点になっているのかがわかる
- 「公費解体」と「民間再生」という二つの選択肢の違いと、それぞれの問題点がわかる
- この裁判が文化遺産の評価や税金の使い方にどんな影響を与えるのかがわかる
この記事では、解体が進められている旧香川県立体育館をめぐる解体費差し止め訴訟を基に、今回の裁判で何が争われているのか、そして再生の可能性はあるのかを分かりやすく解説します。
ニュースの概要
まずはニュースの事実関係を整理します。
- 発生場所:旧香川県立体育館(香川県高松市)
- 報道日:2026年1月9日
- 事例: 保存を求める民間団体「旧香川県立体育館再生委員会」は解体費用の支出を差し止める訴訟の中で、解体前に建物の状態を正確に記録するために専門家が耐震性などを調べられるよう、裁判所に証拠保全を求める方針を固めました。
8日、高松地裁の裁判官と原告、被告それぞれの代理人らで非公開の進行協議が行われ、第1回口頭弁論が3月10日に開かれることが決まりました。
この裁判は、建築家らで作る「旧香川県立体育館再生委員会」の長田慶太委員長が2025年11月、香川県を相手取って起こしたものです。
訴えによりますと、2025年7月に再生委員会が提案した民間資金での再生案について十分な協議や検討を行わないまま解体工事に多額の公金を支出するのは違法などとして支出の差し止めを求めています。
一方、香川県は2025年12月11日、県議会の承認を得て、解体工事の請負契約を8億4700万円で業者と結びました。裁判は「時間との闘い」の様相を呈しています。
なお、旧香川県立体育館の解体議案が提出されるに至った経緯については以下の記事で詳しく解説しています。

旧香川県立体育館・解体差し止め訴訟の主な争点
行政側が主張する「倒壊の危険性」に対し、原告側は最新の科学的検証によって「再生の可能性」を立証しようとしています。
①危険性評価の食い違い
解体の最大の理由とされているのが、「建物の耐震性が不足している」という点です。しかし、その危険性の評価自体に行政側と原告側で食い違いがあります。
被告側(香川県)
2012年に実施した耐震診断の結果、Is値が基準値である0.6を下回っていたことを根拠に、「倒壊の危険があり、安全確保を急ぐ必要がある」と判断しています。

運営者 稲垣Is値とは、地震に対する建物の強度や粘り強さを数値化した指標で、
一般的に0.6以上であれば「倒壊の危険性が低い」とされています。
原告側(旧香川県立体育館再生委員会)
これに対し原告側は、「大地震でも建物全体が倒壊する危険は想定されない」と主張しています。また、2012年以降に耐震診断が行われていない点を問題視し、解体前に証拠保全を行ったうえで専門家による耐震性能の調査・鑑定を実施し、建物の危険性を客観的に明らかにしたいとしています。
②「8億4,700万円の公費解体」か「公費ゼロの民間再生」か
もう一つの争点が、経済的な合理性です。
被告側(香川県)
8億4,700万円の公金を投じて建物を解体し、更地化する方針を示しています。
原告側(旧香川県立体育館再生委員会)
これに対し原告側は、民間資金で建物を買い取り、宿泊施設などとして再生・活用する計画を提案しています。この案が実現すれば、解体費を含む公費負担は発生せず、建物の保存と利活用を両立できる点が特徴です。
実際に再生委員会が公表している検討素案では、丹下健三氏設計という文化的価値を持つ建築物について、県費負担を前提としない現実的かつ持続可能な再生活用の道が示されています。
納税者の視点と行政判断
納税者の立場から見れば、多額の税金を使って解体するよりも、民間に譲渡して活用する方が合理的だと考える余地は十分にあります。しかし県側は「事業の確実性」や「将来的なリスク」を理由に、この民間再生案を事実上受け入れていません。
2024年12月11日に行われた香川県議会で、池田豊人知事は次のように述べています。
また、利活用の面で見ますと、この旧県立体育館につきましては、県として転用する用途はなく、国の機関などにも照会いたしましたけれども、利活用の意向はございませんでした。また、民間事業者を対象とした令和三年に実施したサウンディング型市場調査によりますと、様々な利活用の提案がありましたけれども、民間事業者が県の財政支援などを受けることなく単独で持続的運営を行うのは難しいと、この調査の結果から認識をしております。
こうした行政の判断はリスク回避という点では理解できる一方で、結果として多額の公費を投じて解体する選択につながっており、市民の間で反発や疑問の声を招く要因の一つとなっています。
行政に求められる基本原則
なお、地方自治法では、地方公共団体が行政運営を行う際の基本原則を次のように定めています。
⑭ 地方公共団体は、その事務を処理するに当つては、住民の福祉の増進に努めるとともに、最少の経費で最大の効果を挙げるようにしなければならない。
今回の訴訟は、「8億4,700万円の公費解体が、本当に最も合理的で住民利益にかなう選択だったのか」を、改めて問い直すものだとも言えるでしょう。
過去の解体費差し止めの訴訟事例
今回の香川のケースを理解するために、過去に起きた代表的な解体費差し止め訴訟の事例を2つ振り返ります。
| 建築物名 | 訴訟理由 | 結果 |
| ① 北海道百年記念塔 | 老朽化・安全性を理由とした解体の是非 | 解体 |
| ② 旧大阪中央郵便局 | 再開発による建築保存の可否 | 一部保存 |
① 北海道百年記念塔(2023年解体)
北海道百年記念塔は、老朽化による部材落下の危険性や維持管理費の増大を理由に解体されました。保存を求める市民や専門家の声もありましたが、行政は「来訪者の安全確保」を最優先事項と位置づけ、代替案や活用策を十分に議論する場を設けないまま解体を決定しました。
結果として、訴訟によって解体を止めることはできず、「安全」を理由に文化的建築が失われた象徴的な事例として、現在も議論を呼んでいます。
② 旧大阪中央郵便局(2012年解体)
旧大阪中央郵便局は大阪駅前(梅田)という一等地に立地するモダニズム建築の名作でしたが、駅前再開発という強い経済的要請の中で解体されました。
当時の総務大臣が保存を訴えるという異例の展開もありましたが、最終的には建物全体の保存には至らず、外観の一部を残す「ファサード保存」にとどまりました。その結果、建築本来の空間構成や思想は失われたと評価されています。
旧香川県立体育館・解体差し止め訴訟の行方
解体費差し止め訴訟で「保存」が認められにくい現実
日本国内において解体費差し止め訴訟で原告側が完全勝訴し、建物が全面的に保存された判例は極めて稀です。多くの場合は「安全性」や「行政裁量」が重視され、解体が進められてきました。
過去事例と異なる「旧香川県立体育館」の特殊性
しかし、今回の旧香川県立体育館のケースが過去の事例と異なるのは、具体的かつ資金の裏付けがある民間再生案が現実的に存在している点にあります。
それにもかかわらず行政が解体方針を維持し続けている背景には、日本の行政組織特有の構造的な課題が見え隠れします。
行政判断の背景にある構造的課題
- 無謬性(むびゅうせい)への固執: 一度決定した方針(解体)を翻すことは過去の判断の誤りを認めることになり、担当者や決定者の責任問題に発展することを恐れている。
- 過度なリスク回避: 「売却後に何かあれば責任を問われる」という懸念から、文化遺産を残す価値よりも更地にして責任の所在をなくす「消極的な安心感」を優先してしまう。
まとめ:旧香川県立体育館の再生が問い直す「公共の利益」
旧香川県立体育館の解体費差し止め訴訟は、単なる一地方の建築保存運動の枠を超え、「行政の透明性」と「公金の正当な使途」を問う重要な局面に立たされています。
もしこのまま十分な検証や議論がなされないまま解体が強行されれば、日本が世界に誇る建築物を失うだけでなく、「対案が存在しても行政の決定は覆らない」という地方自治における不健全な前例を残すことになりかねません。
この訴訟は、私たちが「文化遺産的価値が極めて高い公共財」をどのように評価し、次世代のために税金をどのように使うのか。その姿勢そのものを問い直すものだと言えるでしょう。
